行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

相続、相続物件売買、死後事務などに

 午前中からの移動が増えたとはいえ、今日の朝は8時20分に事務所を出た。非常に早く出たのは、地域包括支援センター主任介護支援専門員からのプライベート相談で、現地を確認しながらのお話し設定だった。

 その相談者は、先日電話で告げられた私との関わりに驚いた。私がこの大阪に来て、介護事業の責任者として活動を始めた時に、仕事を発注する居宅介護支援事務所の管理者、その人だった。

 この市の医療を中心に、介護、福祉などを牛耳っている組織の管理者だった。幾つもの施設を運営していたので、お付き合いをしたかったが、厳しく対応されて、ハッキリ言って良い印象は持って居なかった。

 その方が相談者で、待ち合わせに遅れる訳に行かない緊張感を持って、待ち合わせ時間に向かうのが早いと思ったが、落ち着かずに事務所を出た。歩いて30分もあれば充分だと思ったが、40分前に出て向かった。

 15分前に着いた。暫く待っていると、自転車で緊張する相談者が来た。相続物件の中に入って打ち合わせする事になった。ぎこちなく、名刺交換をして、

 「初めての業種で未経験の右も左も分からない当時の自分に厳しく接していただいて育てていただいてありがとうございました。」

 と皮肉と感謝を込めて御礼を述べた。

 これからの手続きの流れを説明して、取り敢えず被相続人3人の原戸籍から亡くなった時迄の戸籍謄本を取り寄せを依頼して、準備が出来た段階で連絡を受ける事にした。

 懐かしい、何十年も前の話になった。私が、この大阪に来たのは2000年1月の事だった。実際に介護事業に携わったのは、その年の6月からで関わりはその頃だった。私は、翌年の6月にその会社を辞めているので、たかだか1年間の話しだったが、印象は残って居た様で、あの頃の自分を振り返る機会となった。あの頃は全く何も知らない無知だった。しかし、一生懸命で実績も相当なペースで挙げて居た。

 そんな自分を見て居てくれて、褒めてくれた。また、驚いた事に、

 「佐藤さんに電話した時に訛りがどこかで聞いたような印象で、調べてみると佐藤さんは宮城県出身だと知って、そういえば自分の父親も宮城県出身だったのでそう思ったと。」

 と、言われて驚いた。

 無視されたり、事業所に報告に行っても会ってくれなかったり、返事が中々頂けなかったり、大変付き合いにくい方だったが、23年間を経て親しく話しができる様になった。

 30分位だったと思うが、必要な説明や打ち合わせが済んで事務所に戻った。戻って、最近見当たらないものを探した。一つは、私の行政書士の名刺。もう一つは、私が買い取った建物の鍵だ。

 行政書士の名刺が見つからないので、朝、相談者に会う時には、NPO法人の名刺を出した。また、新たな建屋には大型不要品の移設をしようとして居たが、見つからずに出来なかった。

 昼にマンションに戻って昼食を取ろうとした時に、死後事務委任者の遺族である鹿児島県出水市の方から電話があった。25日に、ご遺骨を持参する事になっていたが、その到着時間をお知らせした。

 先日も言われたが、何かあった時に使ってくれと現金を見せられた、とその場所を言って来たので直ぐに確認そに行った。その話しは、5年くらい前に出水市から大阪に来た時の話しだった。

 前も、今度も探したが無かった。私どもが入室する前に警察が家探しして貴重品を預かった。その時には、1万数千円を受け取った。その後、三輪さんが確認して、15万円程見つけた。しかし、ご親戚が言うのには、数えた訳でも無いのに4,50万円位あったと視認での印象で言って、それしか無いのがおかしいと言うので、何か疑っているのかカチンと来て、抗議をしたいのを抑えた。

 私が、行政や不動産屋への行った手続きなどの報酬は未だ1円もいただいていないので、火葬や葬儀代など立て替えて支払っているのに、何と言う言い草だと憤慨している。

 今日の午後の予定は、個人的なものでコインランドリーやスーパー銭湯などで、結局は取り止めした。疲労困憊で、休養の為にキャンセルしました。

 午前中に、隣接した市の人権相談室から支援依頼があった。それが不思議に思ったが、この度の亡くなって鹿児島県出水市のご親戚と遣り取りしている死後事務委任者と同じ共通する状態の方の相談だった。

 つまり、視覚に障害があってお一人様の独居老人、親族が遠方にいる方への日常的に必要な事務委任と言う相談だった。預貯金はあると言われた。後日、人権室に於いて面談の上、契約して実務に移行する事となる。