行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

懐かしい人との再会に高揚する

 嬉しい。嬉しい事があると、体の力が抜けると言うか、身体全体が軽くなって一人でニヤけたりして。

 昨夕、社員から私の事務所のドアノブに紙袋が引っ掛けられているとの報告を受けた。隣の事務所の中に入れて置くのと事だった。朝、出勤して、隣の事務所の鍵を開けて置いてあった紙袋を持って自分の事務所に戻ってから、袋に中を見るとお菓子の包のようなものの上に、名刺が見えたので手に取って見て驚いた。

 気持ちが高揚して、抑えるのに意識した。何年も前の事が蘇った。コロナ禍の前まで当社に所属していた女性社員だった。それまでの会社の歴史20年。そしてその後の5年を通じて最高の社員だったと思う。

 新たな私が気まぐれでやりたいと思った事業の最前線に立って実現と軌道に乗るまで、最善を尽くしてくれて、今後も変わりが無いと思っていた。ずっと、この安心できる時代が続くと思っていた。

 その矢先に、突然、旦那さんの転勤で奈落の底に落とされた。

 それは、私が高額数千万円を投資して高齢者の集合施設を作って、これから活動し始める時に突然電話があった。施設が開設するとの情報を得て、一員として働かせて欲しい、と言ってきた。

 話しを聞くと、その直前まで旦那さんの赴任地アメリカ合衆国ロスアンゼルスにて過ごしていた、との事だった。そうして、希望としてその集合施設に置いて、フラワーアレンジメントのセミナーをさせて欲しい、との事だった。

 電話でのお話しを聞いて、能力のある人物だと感じて採用をする事にした。メガネに狂いは無かった。その埋もれていた能力を発揮して、多くの運営を頼るようになった。彼女も、その期待に応えて頑張ってくれた。

 施設での飲食業とイベント開催の運営は順調に行っていた。

 処が、突然、旦那さんが勤務している世界的家電会社の頭脳を集約している滋賀県草津に転勤する事になったとの報告を受けた。丁度、居住支援事業を始めたばかりで、最後の仕事として自宅の新たな住宅支援の実績を教えてくれた。

 賃貸物件を好きなようにリフォームして、賃貸していた。そのリフォーム代金も、勿論、賃貸料も会社持ちだったと言う。それが、私の空き家対策の知識として得られて実績発言に寄与した。

 あれから4年も経過しただろうか。突然の訪問だった。しかし、不在だった。名刺には現在仕事としている資格が幾つも並んでいた。裏の余白に現状の事が少し書いてあった。

 落ち着いてから、携帯電話番号を活用してショートメールを送信した。長文になった。来月には、何と高槻市に転居して来ると言う。懐かしい気持ちと、また、協働できる機会が得られるように願った。時間を調整して再会を約した。

 そんな昂った気持ちを抱えながら、9時半に市役所に向けて事務所を出た。居住支援協議会の補助金申請を中心の会議に参加した。大阪府から3人、市役所が3人と私の合計7人で開催した。

 国の補助金申請は上限申請して、その全額を事務局の当社が受けるが、勿論不足だ。持ち出しになるが、そんな事は気にならないので、早く事業をスタートさせたい。

 その会議が1時間程度で、ゆうちょ銀行と三菱UFJ銀行に立ち寄ってから、三輪さんが探した初めての洋食店に行った。コース料理を頂いたが良かった。美味しかった。

 堪能したが、途中で次の約束の相談者宅へ向かった。メールで立ち会いのケアマネジャーに今向かっているが、遅れる可能性があると伝えた。返事が、意外にもトラブルが発生して、解消に努力している、との事だった。結果的には、キャンセルになった。

 そこで、途中で待ち合わせして寒い風の中長時間外に立って話しをした。

 戻りながら食材の購入に、スーパーに立ち寄った。そのスーパーにいる時に、午前中に私が電話して不在だった、相続の相談があった地域包括支援センター社会福祉士から返信電話があった。

 開口一番、

 「佐藤さん、私名前が変わったのですが、以前、佐藤さんが勤務していた〇〇でお世話になった××です。顔を見たら思い出してくれると思います。」

 と、言われた。

 突然の事で、呆気に取られて言葉が出なかった。暫くして、思い出した。私が、介護事業に携わった時の事が蘇った。

 近くの医療系のケアプランセンターの管理者で、厳しく対応された。医療機関らしく、制度運営は機械的で人間性は殆どなくて苦痛だったが、お客様を紹介頂く立場だったので我慢に我慢を重ねていた記憶が浮かんで来た。20年以上も前のケアプランセンターの管理者が、地域包括支援センターにて勤務しているのだ。

 今日はなんて言う日だ、と不思議な事の重なった日だと思った。