行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

母の墓標に手を合わせて

私が仙台市で生まれた場所は、仙台市の伊達家の総鎮守として尊崇されている国宝大崎八幡宮の近所の「八幡町」にて出生した。その前を通って、仙台市営墓地に向かった。

 母親の遺骨が埋葬されているお墓に向かいながら、気持ちを新たにしていた。思い返せば、18歳で仙台を離れて、自分を苦労して育ててくれた母親と過ごす時間は、母親が亡くなる迄の50年間で殆ど話す時間も無く、育ててくれた感謝の気持ちを伝える事もできなかった。何という親不孝な男だったのか。亡くなってから、いくら思っても自己満足だけで、母親には通じない。

 毎年、年末に帰省して母親の自宅へ行って30分も滞在したら長い方だった。何かが起きれば駆けつけたが、殆ど、自立していたし子供に迷惑を掛けられない、そんな気持ちを痛いほど感じていた。

 生活への支援を積極的に行う気持ちを伝えても、簡単には受け入れなかった。例えば、夏の暑い盛りにクーラーを設置する様に何度言っても受け入れなかった。遂に、息子を仙台に派遣して強制的に注文して設置させた。勿論、ライフラインの負担は全て私の口座振替で処置していた。

 体調が悪化して、心配な症状になっていつも帰省する時期ではない時に帰省して、近隣の支援してくれる方々に息子としてご挨拶をしていざとなった時に支援をお願いして回った。

 月に何度か仙台に帰って、母親が願う対応をしていても、そんな深刻な状態だとは思わなかった。コロナ禍が一番激しく病院も神経質になっていて、簡単に病院には見舞いに入れなかった。

 なので、私への医療機関から連絡は主治医や看護婦長からの、報告や連絡だった。時には、許可を求めてくるものもあった。

 思ったより症状は悪く、私が初めて病状の報告を受けた時には既に余命の宣告を受けた。母親には、伝えていなかった。最後まで、母親は退院後のお話しを聞いていた。

 何度もベット上から、早く自宅に帰りたいと時間を問わず電話があった。不憫でならず、悲しくも哀れさを抱いて声にならず、返事も出来ず申し訳なかった。

 何でもっと話しをしなかったのだ。後悔の念が、今頃になって湧いて来た。その気持ちを持ってお墓に向かった。

 高校時代の先輩に迎えに来て貰って、母親が眠る墓地に向かった。本当に、先輩にはお世話になり、ありがたい。ただ、スポーツカーなので、乗降が大変だ。途中、copeによって供花を買って墓地に行く。手を合わせながら、改めて、この場に来るまでに思った謝罪の言葉を再度申し上げた。取り返しがつかない。本当に、もう少し感謝の念を伝えるべきだった。

 この日は、仙台市の年末の一大イベントである「光のページェント」最終日だった。毎年、この時期に帰省して、このイベントに接して仙台に戻って来た、と思いを新たにする。

 私は先輩に会う前に、お腹が空いていたので仙台駅でお蕎麦屋さんを探したが、あったはずの蕎麦屋が見つからなかった。

 何度か駅構内をウロウロと行ったり来たりして、探したが見当たらずに諦めて、新しいお店が目に入ったので、決めた。新潟県の味噌ラーメンを食べることにして、並んだ。暫くして招き入れられて、白味噌ラーメンの食券を購入して座席に座った。

 美味しかった。私が、ラーメンを外食するのは珍しい事だった。美味しくいただいたが、やっぱり塩辛くて喉の渇きがキツくて先輩との店に入るたびにソフトドリンクを飲み干した。

 「光のページェント」の点灯時間を間違えて、多くの時間を潰すのに歩いて歩いて歩いた。それでも、点灯する前にそのコースである「定禅寺通り」に早く来てしまう。未だ、薄暗い欅並木の歩道上に大勢の善男善女が、今か今かと立ち尽くし、ある者は座って、またある者は歩いて、その瞬間を待っていた。

 それらの観客を見て観察すると、100%と言っていいほど高校生や専門学校生レベルの若い男女ばかりで、カップルは3分の1程度だった。そのカップルの顔をマジマジと見て観察すると、何とアンバランスなカップルが多い事か。思わず笑ってしまうカップルもいて、楽しかった。

 例年の年末行事が終わった。また、来年も穏やかな良い年であります様に、と願った。