行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

成年後見人になった理由は

 日本国の総人口は、おびただしい数の消滅虞がある市町村が公表された通り、大きく減少しているのに認知症患者は大幅に増加している。 このままいけば、日本国が消滅する原因の大きな一つになると言われている。その認知症患者に対する、経済的負担や家族親族の労力負担は大幅に増加して生産性のない分野に多くの人材も関わることになる。

 一部の地域では、その対応を自治体全域で住民を巻き込んで対応をしているところもある。僅かな取り組みだが、他の多くの自治体は傍観を決め込んで進んだ対応をしてこなかった。これから、多くの弊害が巻き起こって慌てて影響を食い止めようとするが、少子高齢化への国の対応と同じで、何もせずに手をこまねいて流れに委ねるだけになるだろう。

 そんな中で、介護保険と同じ2000年4月から施行された「成年後見制度」が使い易く市民目線で分かり易く改正されようとしている。これまで、制度が存在しながら全く浸透はせずに、一部の方だけが制度利用を行って来た。何故、この制度が浸透しなかったのか。それは、諸説あるでしょう。

 成年後見人の選任は家庭裁判所が決めて、全く縁もゆかりもない法律専門家が選任されて、本人の預貯金んから多くの報酬負担が決められて家族がその預貯金の動きを知ることも出来ない。一旦選任された成年後見人を替えたり辞めさせたり出来ない。

 などの多くの不満が市民の間に広まっていて、成年後見制度利用に踏み切る決断まで到達しない。

 私が、この制度を知ったのはケアマネージャーとして活動している時だった。私は、2000年に介護分野に身を投じて、日夜、時間を惜しんで訪問介護員として活動していた。最初の月に売上高は、なんと0、つまり0円だった。 それから、動きに動いて5年後には月間平均2500万円年間3億円の売上を達成した。

 その期間でも、この介護事業でより高みを目指すには、年齢など体力的な自信もなく将来を見据えて介護ヘルパーを必要とする労働集約事業から少数人数で高収益を上げる知的集約事業への挑戦を計った。

 その実現の為には、別法人の法人設立を検討してその当時の正規社員30人以上を料亭に集合させて、私が考える将来への展望を説明して特定非営利活動法人設立に必要な社員10人以上の同意を求めた。

 しかし、私の思いは浸透せず半数の5人も集まらなかった。なので、知人や家族を加えて地域後見を目的とした特定非営利活動法人NPO法人の設立を図った。

 私は、決めたら後に引かず突っ走る。丁度、成年後見制度への踏み込んだ時期だったので、上手い具合にスムーズに法人後見の受任に繋がって、これまで数百人の認知症患者への支援を行っている。

 また、コロナ禍が始まる直前に数千万円を投資して、高齢者の集合施設と飲食業を併設した施設の設置と運用を行っていた。コロナ禍が襲って来て、閉鎖を余儀なくされたが、当法人の充分な周知に役立った。

 2007年頃だったと思う。ケアマネージャーをしていても、成年後見制度の名前すら知らなかったのだ。あるご夫婦がケアマネジャーとして私の担当となった。面談して、旦那さんが要介護5の寝たきり状態。奥さんが要介護1の認知症状態。

 この方への対応で、私の精神的肉体的がくたびれてしまった。時間を問わず、電話が掛かって来る。助けてくれと旦那さんから夜9時過ぎに電話があるのは日常のこと。奥さんが、喧嘩して寝たきり状態の旦那さんへ扇風機を投げつけたり鋏を持って襲い掛かったり。又は、奥さんが認知症で元気で徘徊して、近所や通行人に助けを求めたりして、家に入ると直ぐに正面に大きな紙が貼ってあり、奥さんの症状と連絡先として私の携帯電話番号が書かれている。

 事情を知らない通行人は、ケアマネジャーとしての職務を怠っているのではないか、と強い叱責をしてくることもあった。認知症者が夜徘徊しているのはおかしいでしょう、という訳だ。24時間見張っている訳に行かないし、その負担は老夫婦には出来ない。私が来るまで、待っているという連絡者もいた。出張している時には、通行人が徘徊している奥さんを保護して善人として私への言葉が厳しくなり、私は一方的に全く知らない方から叱責を受ける羽目になる。

 そんな時期が2年近く続いて、その間も言葉に言い尽くせない大変な事ばかり起こっていた。そうして、極めつけは旦那さんの急死だった。これも、大きな死因に繋がる事情があり私と引き起こした、数人しか分からない事情だった。

 最終的に警察署から警察官が来て、私は缶詰めになって1時間以上の事情聴取を受けた。事実を言えば、多くの方を巻き込んで私の今後の人生で裁判の証人など多くの時間が拘束される。そんなことが、頭の中を巡った。旦那さんの死に際して、看取ったのは私だった。

 朝一番で救急搬送されて、医科大病院ICUにて蘇生を試みた段階で、病院に来るように医師から連絡があった。丁度、講習で講義をしている時だった。事情を生徒に話をして駆け付けた。相当待たされたと思う。

 結局、蘇生はならず、死に顔の確認をICU室で行った。医師の説明を受けていたが、目は遺体を追っていた。心臓に電気で強い刺激を与えた跡が胸辺りに残っていた。管が、半開きの口から出ていた。頭の中は、認知症の奥さんのサポートは誰がするのか、それも今日から直ぐにケアマネジャーとして対応しないといけない。

 警察官の事情聴取が終わってから、徘徊する奥さんを入所して貰う施設探しの行動に移った。ところが、入所するには「連帯保証人」「緊急連絡先」が必要で、二人のお子さんが居たがお子さんが幼少の頃にひどい仕打ちをしたようで、二人とも県外にいて普段から支援を拒んでいた。男の子は、連絡してもしてくるなと激しい怒りを思って脅して来る。

 旦那さんが病気で入院した時も、病院側は必要に応じて親族の了解や署名が必要で求めるが、拒否する。私は、大阪の外の県に過ごしている息子さんに会いに行って説得したが受け入れない。病院側が、連絡してやっと姿を見せたが自分の気持ちを曲げられたと医師や看護師に二度と連絡するな、と脅して出入り禁止となった。

 私が、何度もとりなしたが限界があるので、何か他に手立てがないかと調べ始めた。娘さんは、九州に嫁いでいるので現実的ではない。火葬や葬儀も遺品整理も私が主導でプランして実施した。

 息子は出てきたが、娘は来なかった。息子から話を聞くと、子供頃から父親に暴力を振るわれて、中学生の時に家を追い出されたと言う。それから、自分の力で生きて来た。既に30代後半になっていた。学歴が無かったので苦労したようだが、家庭も築いて家も買ってやっと自分の力で安定を求められる時に、親のお陰で金銭的な負担が生じれば一瞬にして崩れる砂上の楼閣のような現在に何とか影響の無い様にしたい思いが、会ったばかりの私に金銭の工面を相談して来た。貸してくれなど悪い冗談だと、お断りした。

 ただ、事情は分かったので負担は掛けまいとそれらの費用100万円弱は、私がすべて立て替えた。それは、旦那さんが、簡易保険に入っていたのでその保険金で清算できると確信があったからだ。この時の、一連の作業が、その10年後行政書士として独立して死後事務や遺言執行、相続での保険の解約、遺品整理の現実などに加えて、仏壇の魂抜きなどの作業を知る事が出来た。遺品整理業者の値段を吊り上げるやり方など驚いた金額に唖然とした。

 さて、奥さんの今夜からの徘徊への対応だった。介護事業所を運営しているので、サポートはプロなので24時間でも対応が出来る。ただ、いつまでとの目標が無いと社員も疲弊する。施設入所では、施設に相談しても、

「連帯保証人や緊急連絡先は大丈夫ですか?近所に住まれていないと、駆け付けなど出来ないので。」

「お子さんがおいでになりますが、離れているので私がなります。」

「ケアマネジャーは、立場上出来ないでしょう。」

と、断られて、市役所の高齢介護室に相談した。

「佐藤さんの為だから、在宅では無理ですので手を離して地域包括支援センターに相談して下さい。」

 そう言われたので、そのようにしようと思ったが、もう少し頑張ってみようと、他に対応できる手立てはないのか、と色々と調べた。

 代理権を貰うには、認知症なので成年後見制度があると分かった。

 資格は、その成年後見人に就任するには、どうしたらよいのかと段々と調べて行った。

 この奥さんには間に合わないが、東京大学にて一般人を対象に成年後見制度のセミナーがある。半年に亘って、東大に通わないといけない。隔週土曜日と日曜日の2日間、半年通うという事は大宮の自宅に帰らず東京大学の近くのホテルを取って、土曜日泊まって日曜日に授業が終わったあとに直ぐ東京駅に向かって、新幹線で大阪に戻って来る予定を建てた。経費は、半年で100万円位かかる。

 奥さんは、当社が24時間対応で、時々介護保険点数内のデイサービスを併用した。社員にお願いして、交代交代夜は泊まることになった。これが、介護保険なら数百万円にもなるサポートとを行った。しかし、収入はなかった。知人を頼って、遠方だが老人保健施設にお願いして受け入れて貰った。

 偶然だが、京都在住の認知症の方に成年後見人が就くことになって、その相談に乗っていた講師が、東京大学の成年後見人養成講座の講師で近隣なので紹介を受けていた。大阪の施設に入所したので、成年後見人を受任してくれと相談されて受け入れた。その時知った施設への奥さんの入所相談をした。面談や審査があって、身寄りがなく金銭的な余裕もないということで老人保健施設への入所が決まった。

 私から手を離れて、思い切って成年後見審判申立てをお願いした顧問弁護士の指導を受けて、その業務の勉強もさせて頂いた。奥さんは、何度か更新して老人保健施設で過ごしていたが、暫くして、系列の特別養護老人ホームへ転居して10年後の数年前に亡くなった。この方の支援をして、多くのことを学んだし、今の自分の糧となっている。

 さて、方や、金銭的な課題を抱えて報酬が見込めないので、色々なチャンネルから成年後見人就任の打診がある。最初から、成年後見制度で収益を揚げようと思っていなかった。東京大学で教員から指導を受けた法人後見を立ち上げた結果が、今の常時100人前後の認知症患者への支援運営に繋がっている。

 続きは、またの機会にお伝えしたいと思います。