行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

母の日に思うのは

 母の日が近くなったので、メールで沢山の贈り物の提案メールが来る。仙台で一人で生活していた母が4年前に亡くなるまでは、毎年、花とお菓子を送っていた。

 日比谷花壇へ注文していた。私は、東京で一番大事な時期を30年以上過ごしていたので、東京の生活に染まっていた。大阪に来て24年経過したが、一言も大阪弁を使用することはない。よく社員は私の大阪嫌いを知っているので、私の前では標準語で大阪弁は使わない。しかし、彼女たちが寄り集まってしゃべる時には勿論、大阪弁丸出しだ。

 そんなことを思い出させる、多くの母の日に際しての日比谷花壇からのメールだ。まだ、メールを受信しているのだ。母親が亡くなった時は、丁度コロナ禍が始まったばかりで、国立病院機構だったので厳しい面会規制が敷かれていた。

 なので、入院先の病院とは全て電話での遣り取りだった。手術やその後の処置について、担当医や看護師長からの治療や手術の説明の了解の電話だった。説明や許可は私が対応して署名は仙台在住の弟が行っていた。

 最初の電話で、余命1カ月以内と言われた。その直前に母親に会いに仙台を訪れた時には、かなり痩せていたが普通に話が出来て、そんなに症状が悪化しているとは思わなかった。

 いつも、自分のことは自分がするので他人の支援を受けないと言う強い信念があった。ケアマネジャーだった私が、将来の練習の積りで介護を利用するように助言したが、一切受け入れなかった。

 そんなことより、自分の体調も考えずに、近隣の身寄りのないお年寄りの面倒を見ていて、ボランティア活動をしていた。80歳を過ぎても、東北大学の高齢者向けの認知症予防のデータ作成に協力して、いろんなワークブックを持ってきて、毎日学習していた。

 急に症状が悪化して、緊急入院をした。その病院が自分に合わないと、退院を求めて転院した。毎日、ベット上から電話が来た。早く退院でして、大阪に手伝いに行くと言う。

 当時、私は高齢者施設を運営していて、そこで飲食業の免許を取得してランチの提供をしていた。母親は、料理がことのほか上手でどんな料理でも美味しかった。父親が、飲んだくれの仕事をしないという昭和の最悪の男だったので、収入は母親の一手に掛かっていた。育ち盛りの男5人兄弟で、特に私は剣道に命を掛けていたので練習で腹が空いていて夕食などラーメンどんぶり3杯くらいのご飯を食べていた。

 食費は嵩んだろうが、思い返せば、決まったように朝は納豆と豆腐、油揚げ、ネギの入った味噌汁だった。夕食は、仙台朝市の市場が近かったので、休みの日にホッケやサンマやニシンを買いに行った。当時で、1匹10円くらいだったろうか。

 醤油や味噌などは、近くで製造している蔵があって時間のある時に母親から言われて一升瓶を持って買いに行っていた。夕食は、私が手伝うこともあった。それが、今自炊に活かされている。東北大学が直ぐ近くで、構内に沢山の松が生えていて、秋などはその枯れた落ち葉を拾って来て七輪にくべた。

 母親は、愚痴も言わずに日夜働きに働いて私ども子供を育てた。私は次男だが、一番下の弟の就職を機にやっと離婚した。長男を除いた4人は母親の籍に入った。姓が変わった訳である。

 それでも、苦労は相変わらずで、私も、東京にいた当時は馬車馬のように、休みなく働いていた。しかし、母親に援助するほど余裕がなく無為に過ごしていた。バブルがはじけた時期を機に、転職する積りでポリテクセンターに通うこととなった。介護サービスの学習をしたのだ。

 その卒業時期と、大阪にいた実兄から事業を手伝ってくれという声掛けが一致した時期だった。私は、卒業と同時に現在のニチイ学館に入社が決まっていた。地元埼玉県の大宮にである。

 ところが、大阪にて事業会社を経営していた実兄が介護制度が施行される前年に何度も東京に来て、介護事業をするので大阪に来て事業の創業ををしてくれと、三顧の礼を尽くして東京まで夫婦で勧誘に来たのだ。

 お前に任せる、好きなようにしてくれ、と何度も言う言葉に負けてしまって大阪行きを決めたのだ。丁度西暦2000年の1月に、初めて大阪の地に足を着けた。

 しかし、私の好きなように、という言葉は古参社員のあり得もしない私を追い落とすウソに実兄は信じて、私を追い出しにかかった。つまり、6月に訪問介護の指定を取得して、一気に売り上げを伸ばして、事業所も守口市、大東市、東大阪市、大阪市と次々と設置して社内での信用も高まって来た時に、古参社員が私が役員となったので自分の身を案じたのか、私が会社の乗っ取りを図っているとの、嘘情報を作って実兄に耳打ちしたものだから、大阪に来て信用しない疑心暗鬼の気持ちになっていた実兄は、私に辞めるように通告して事業所にある利用者の資料など全て事務所から持ち去ったのだ。

 携帯電話だけしかない状況の中で、普段通りの動きをするので、給与を支払わない暴挙に出たばかりか介護事業所にいる社員などの給与を私に負担しろと兵糧攻めを始めた。

 この時から、妻に迷惑を掛けているが、その負担をするために数千万円を何度も送金してくれた。兄の会社は、決算書を見せて貰ったが年間売り上げが8億程度の収益を上げていて、工場などの運営もあったが、人材が備わって居なくて社員が会社に信頼を置いていなかった。

 その状態を将来が無くなると知っていたので、私にそれらの管理をさせようとしていた。しかし、私はそれは受け入れずに、訪問介護事業所指定を取得した1年後に、矢折れ刀尽きて退職した。

 私は、大阪を去る積りでいたのだが、その情報を聞いた介護業界のリーダーたちが私の介護に対する姿勢を評価してくれて、応援するから大阪に残ってくれと言われて、その言葉を受け入れて2001年7月に独立ることとなった。

 その後は、言葉に言い尽くせない妨害や嫌がらせや詐欺に遭って大変な時代を乗り切って来た。その大事な時に妻が大宮から多額の資金の送金をしてくれていたので、その介護に対




する姿勢は変わらずにいた。

 売り上げは2年目で1憶越え5年目にして3憶越えとなった。そこから、生活も少しは楽になって、母親への援助をする事が出来るようになった。妻へは、それまでの金銭的支援に対して私の報酬全額を提供することで、形に変えてお礼を表現した。私の報酬は売り上げの1割を標準にしていて、これまで50億円以上の売り上げを記録しているので、その1割は私は受け取っているが最終的には全額妻に渡している。社会保険、所得税などあるので7割くらいが手取りだ。

 そうして、その中から妻が母親に毎月仕送りをしてくれていた。私の、ここでの生活費は他の事業での収入があって、最近は不動産購入して賃貸しているので家賃収入や行政書士の収入で私の預貯金も大幅に増えた。これくらいあれば、息子2人分の一生の生活に困らない相続が出来ると思っている。これで、私の義務は終わる。