行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

昭和の常識

 それにしても、昭和の遺物の人間はどうしようもないと、こんなのと話しをしてもどうしようも無いと片付けて帰ろうと思った。

 朝早くから、準備してをして7時過ぎには事務所を出た。仙台の高校の先輩の紹介で支援してくれと依頼されたので、少しは手伝ってあげようと思って時間を作った。

 その第一弾として数ヶ月前に新大阪駅で待ち合わせて、その日が最初の面会だった。ミャンマー連邦共和国の人材送り出し機関の日本支社長で、高校の先輩の勤務していた会社の上司がその日本支社長だった。

 先輩は、昭和50年頃に東京は目黒区自由が丘にあったオートクチュールの「馬里邑」に勤務していた。その時の上司だ。

 その人に支援する為に新大阪駅8時6分発の新幹線で上京した。10時半過ぎに東京駅に到着して、乗り換えて有楽町駅で長男と待ち合わせした。

 早めに着いて、暫く待つと長男が着いた。外に出て、日比谷シャンテビルに向かう。早く着いたかた思ったので、暑いしビル内に入って暑さを凌いでいた。

 直ぐに、ミャンマー人の通訳を連れて昭和時代の管理者が現れた。これまでは、見た目で時代から置いてけぼりをくった人間を思い知らされたような感じを抱いた。

 風体だけでなく考え方や言い方なども含めてだ。段々と腹が立って来た。自分で準備した資料を持参したが、殆ど出す事も無かった。

 基本は、ミャンマーで育成した人材を日本で働きたい希望を叶える、人材紹介事業の営業活動だ。その目的で、先輩はその昭和の時代錯誤の男を紹介して来た。

 しかし、私はそのような方の手先になる気持ちは無く、自分の思いを変えてまで付き合いたくも無い。

 12時から2時迄、2時間ニュー東京のレストランにいた。最初は我慢して聞いていたが、後半から言っていることがおかしいじゃないですか、と私は言う。

 「そんな堅いことを言っては話が進まない。」

 「何が堅いんですか。当然のことじゃ無いですか。」

 そんな言い合いを、言葉上は穏やかを装いながら、実のところ言い合いになった。

 先輩は、このような人間の部下賭して理不尽な要求に耐えていたのだろうか。

 私に、ミャンマー人の労働者を必要として居る企業を紹介しろという。それは、手伝ったり情報を送ったりしてもいい、しかし、例えば一人企業が雇うのに紹介する協同組合に手数料としていくら払うのか、初期費用や毎月の費用だ。

 「それは、紹介してくれれば私たちがそこへ行って説明するから情報だけくれればいい。」

 馬鹿な、そこに話しをするにも当然のことながら、最初に重要な情報を話しをして口火を切るのが当たり前だ。

 私に紹介だけさせて、あとはいいからと言って当社に、その昭和の妖怪が得る利益の何%も渡さないという訳か。若しくは、奴らが組んでいる協同組合の機密に当たる情報の開示をしたく無い、そういう訳か。

 席を隣にした為に、身近で話す事になり困ったのは、口臭がモロに被って来る。吐き気を催す危険なムカムカが湧いて来た。

 もう一点は、私がミャンマー人労働者を紹介した後に、悩みや困った事などをサポートする大事な事は如何に進めるのか、それについても何度も言い合った。

 私は、それを主眼に置いて準備してをして居る。その事にイラついて居るような昭和の遺物のは、

 「そんな事まで考えていられない。我々は、紹介した後の事まで、そんなの必要ない。」

 「そんな馬鹿な。来年から、人材の流動化が進んだら居住や就労など多くのサポートが必要になって来る。だから、今のうちにコミュニティを作って、職場での悩みや何かの手続きなど聞きたいことが沢山ある筈です。どこに相談したらいいのか。相談業務が一番必要なのに、そんなの自分たちは関係ないって、どういう了見ですか。」

 そんな感じの言い合いをした。

 今、奴隷制度のような日本の外国人労働者への制度批判が世界で巻き起こって居るのに、この人達がこの批判の元凶なのだろう。

 私は、何もこいつに指示される言われも無い。私が持論を曲げないので、諦めたのか、妥協して来た。

 私が求めて居る事に対して、情報を開示して来た。それなりの文書にして提供するという。

 私が、話しを打ち切って書類をバックに仕舞い出したので、慌てたのだろう。

 つべこべ言わずに、黙って俺のいう事を聞いてやればいいんだ、と怒鳴っていた昭和時代の悪い上司タイプがコイツらで、今のグローバル化について行けずに、国際的な批判の元凶だが自分達は気付かない。

 私が外国人労働者を対象に準備して居るのは、これからの人材の流動化に対してでこのような人物が放棄して居るアフターフォローやアフターケアが中心だ。

 奴に最初示したのは、この日本政府が変えようとして居る現行の外国人労働者制度への意見集約で、ミャンマー人労働者へのヒアリング記録である。

 しかし、準備して来た他の資料は出さなかった。このような人物にこのような高度な情報を提供しても、何の意味も無さない。知ろうとしないし、煩いというようなものだ。私も、このような人物に話しをまともにしたくない。

 やっと苦痛の2時間が終わって、外に出た。昭和の別れ方の典型で、形ばかりの握手を交わして、別れた。

 私は、この後に長男とナビに表示された「仙台藩祖 伊達政宗公終焉の地」に向かった。日比谷公園一角にあって、打ち合わせした店の近くだった。

 有楽町駅から、さいたま市の自宅に向けて電車に乗った。駅に着いて、妻の運転して来た長男の車で「魚類 角上」へ向かった。

 新鮮な魚を目の前にして、安いのに12000円余りを買い込んだ。

 家に戻って来て暫く休んで、購入して来たお寿司や刺身を並べて壮観な景色の中で、幾つか食べた。マグロやサーモンなど何も絶品だったが、生のカツオは最高だった。


 大阪にいる菊ちゃんから、連絡があってまた突然、家を失ったと人が突然飛び込んできて、知人の不動産屋に紹介して事なきを得たとの事だった。

 家庭裁判所堺支部から連絡があって、私が成年後見人として選任するが財産が多いので、成年後見監督人の選任の件だった。

 大阪市暮らし住まい館から連絡があって、シェルターへの避難手続きの依頼だったが、着信に気付かなかったり、不手際で出られなかったりして、他の居住支援指定業者に依頼したとの事だった。残念至極。

 かくして、伸び切った少ない髪の毛を妻に刈って貰って、今日のところは終わった。