行政書士から拡張業務へ

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3月11日の出来事

 3月11日は、仙台に生まれ育った私にとって特別な意味の重要な日だ。私が生きている間に、この様な歴史的な災害が起こるとは。

 何度か、そう思った事があった。日航ジャンボ機墜落事故で500人以上の命が一気に失われた時も、同じ様に思った。

 そうして、この新型コロナだ。

 あの日出来事のあった、2時46分。今年は大阪のマンションでその時を迎えて、テレビから流れるサイレンに合わせて黙祷をした。昨年は、仕事中で門真市古川橋にて迎え車から降りて路上で黙祷を捧げた。

 気は強く持っていても、黙祷を捧げている間は自然と込み上げて来るものがあった。早いもので12年も経過してしまった。

 当日の日記を読み返した。事務所にて仕事をしている時に大きな揺れに気になってパソコンで震源地を調べて、「宮城県震度7」という初めて目にする震度に驚きそれでも、直ぐに安否が気になった母親がいる仙台に電話する。

 携帯電話では繋がらず、固定電話から実家の固定電話に電話した。母親が出た時にはホッとしたが、家の中の惨状を聞いて、居ても立っても居られない気持ちになりながら、安否が気になった方々への連絡次々としたが、この後は一切誰にも繋がらない日々が続いた。

 母親との話しを終えて、キャンセルしようと思った仕事を個人の事情で利用者の支援を中断する気持ちになれずに、ケアマネジャーとしての職務を続けて、夕方に帰宅してから深夜までテレビに釘付けになって食い入る様に見入った。

 恐ろしさが、この身に襲って来た記憶がある。恐怖心である。翌日から、恩人や知人友人、そうして弟の居場所を探し始める。母親とは、避難所へ行ったのか、もう連絡が取れなくなった。通信障害や集中する安否確認の電話で回線が正常に作動しなくなって情報はテレビでの映像だけになってしまった。

 雪が舞う寒寒とした中で、過ごす被害者避難者の姿を見ても何も出来ないジレンマで、自分でも分かる塞ぎ込んで、社員に私の部屋に来ない様に通知を出す。事務所入り口にも、張り紙を貼った。

 何とか仙台に帰還する手段を模索するが、全てのルートは遮断されてままならない。最初の日に母親とは連絡取れたが、ライフラインが全てストップしているので、生活が成り立たない部屋には居られない。

 避難所へ行ったのだろうか、支援する弟たちは母親の元に駆け付けているのか。いや、その仙台に居るはずの弟二人の安否すら確認出来ない。

 新幹線もストップ、高速道路も救援物資を輸送するだけ、被災地への救護だけ、の車だけに通行は許可されていた。ホテルはすべて予約を受けない。

 自分の当時の記録を読み返すと、この大震災の数日前から原因不明の食欲不振に襲われれ、意欲が最悪の状態に陥っていた。

 不思議な現象がこの身を襲っていた。仙台愛が、予言した私の身が仙台と一体となっていたと、今になって思う。

 あれから、もう12年という年月が過ぎ去っていた。帰るに帰れない、悶々とした日々を過ごして無事帰還を果たして母親と会ったのは、大震災から2か月後の事だった。

 被災地を見舞って、余りの惨状に声も出ず、見るもの目に入る光景に只々衝撃を受けた。特にテレビでもよく取り上げあられた高校の同級生が町長の南三陸町に、親友の安否を確認に入って亡くなって遺体が見つからないのを知った。

 彼の最後を知る先輩に聞いて、その後、哀悼を示す為に毎年南三陸町を訪問した。やっと、数年後、遺族が彼の捜索を諦めて遺骨のない納骨をしたと聞いて、墓地を訪れて手を合わせて私の親友としての思いを一区切りとした。

 いつもこの時期に、百貨店でここ大阪で行われている宮城県物産展に行って、宮城県から来ているお店の人達と被災の時間に合わせて黙祷を捧げていた。

 数年前に、それが終わって、イートインで牛タン定食を食べている時に、目を見張る若い長い髪の綺麗な女性が一人で入店して来た。ジッと目を外せなくて見ていた。

 突然、箸が進まずに涙が流れているのが見えた。流れ落ちる涙の雫を拭おうともせずに。

 静かに流れ落ちるのを、色々と事情を思い巡らせ乍ら、ジッと見ていた。あの光景は、いつになっても忘れられない。