行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

昭和30年代の記憶

 今日も朝7時から12時迄の5時間、全く休まずに補助金の実績報告書を作成していた。もう少しで終わる。今月は二つの補助金で、合計700万円程度の支給がなされる予定だ。

 なので、今日も60年前の仙台での小学生時代の記憶。

 昭和33年に小学校に入学した。仙台市で一番小学校と言われた明治5年創立された小学校で、近所に住んでいた。1873年創立なので150年目になる。

 この小学生の後半の世間を知り始めた当時は、美空ひばり、ザ・ピーナツやこまどり姉妹の歌や映画がヒットしていた。しかし、ウチはそんな流行とは無縁でラジオが唯一の楽しみで、それでも小学生なので聞きたいものはなく、自然に耳に入って来たのは浪曲だった。

 ボクシングの中継も記憶にある。小学生だったがよく映画を見に行った。ジャンルは問わず、時代劇からテレビで放送されていた「隠密剣士」「ハリマオ」「風小僧」などあったが、私は「七色仮面」が大好きだった。

 歌の方は、演歌が主流で春日八郎、三波春夫、村田英雄などの歌が流れていたのを思い出す。

 小学生生活は、ごく普通で真面目だったと思う。小学3年の女性担任が気性が激しく、丁度安保闘争が東京で激しさを増していた昭和35年のことである。今から東京に行って闘争に参加して来る、と言って本当に上京して行った。

 この先生は女性とは思えない様な、当時、コークスや石炭を使ったストーブで教室の暖を取っていたが、その石炭やコークスをストーブに入れた後にストーブ内を引っ掻き回す鉄の先曲がった引っ掻き棒で、頭を殴られた。

 長いスジ状のコブが出来ていた。箒の柄で🧹叩くのは日常茶飯だった。とんでもない先生だった。

 学校の校舎は、木造で旧い学校の写真を見れば、そのままのコの字型の校舎を利用したかくれんぼをして遊んだ記憶があります。校舎の角に踊り場があった。

 この当時、小学3年生から夕刊配達をして、中学1年生まで朝刊も合わせて頑張っていた。部活が忙しくなって遂に辞めてしまったが、店長が怖い人で、辞める事を口に出せずにズルズルと長く掛かってやっと言えた。

 新聞配達をしている時に、ソヴィエトのガガーリン少佐が「地球は青かった」との言葉を残した有人衛星で成功したニュースが記憶にある。

 三河島列車三重衝突の事故の記事も記憶にある。160人以上も亡くなった大変な事故が東京で起こって居ると子供心にも恐怖に似た気持ちを抱いていた。

 三井三池炭鉱事故も、450人以上も落盤で亡くなって、信じられない気持ちになって、大変な仕事に就いて居る人が沢山いると知ったので、自分の苦しさなんて何でもない、そんな気持ちになった。

 大きな事故が相次いだ時代だった。安全確保や事故防止より生産性を重視していた時代だった。

 その時代、何でも売れた時代で鉄屑を集めるのに、磁石を糸で繋いで道路を引いて歩いて釘などを拾っていた。東北大学が直ぐに横にあったので、自由にキャンパスに出入り出来ていて、壊れた自転車の部品を貰って来た。

 胡桃の木が東北大構内にあって、拾って食べたり杉の葉を拾って来て竈門にくべて燃料にした。

 先日、仙台市の昭和40年代の写真集を見ていたら自分が住んでいたそのものの場所のあの当時の画像が見れた。あんなに古い街並みだったんだ、と意外な気がした。

 歌は丁度古い演歌や股旅物、人情話のどさ回りがお祭りに来ていた様な時代だったが、突然、加山雄三や森山良子が現れて、舟木一夫、西郷輝彦、三田明などと急に路線を偏向した橋幸夫などが時代を作り出した。

 「青春」という言葉に憧れていたので、舟木一夫の歌を一生懸命覚えて学園ものの映画をよく観に行った。ちなみに、舟木一夫の奥さんは中学校の同級生なのだ。

 「君たちがいて僕がいた」のセリフを覚えたり「修学旅行」や「仲間たち」「学園広場」などの歌を聞きながら、学生時代をこの時代にあった学生生活を謳歌していたのだろう。

 加山雄三の「若大将シリーズ」も欠かさず観に行った記憶がある。

 剣道命で「根性」という言葉も常に口に出していた。「根性、根性」と今でもよく口に出す。

 「根性があれば、どんな事でも克服出来る」

 そう言って、困難に直面した時には、口に出して絶対に社員には弱身を見せない。

 日本の歌だけではなく、外国の映画音楽やビートルズを始めとして昭和時代を彩った外国人歌手が沢山日本に影響を与えていた。

 ダニエル・ビダルが大好きで、夕陽に映えるジャケット写真を残して居る。