行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

人生を変えた妻に感謝

 午前中の仕事のゴールが見えて来た時に、いつものようにYouTubeで歌を聴きたくなったので、今日は最初は中村雅俊の「ただおまえがいい」を聞いて、12時なった。

 止めて、帰り支度が出来なかった。

 次はアリス「遠くで汽笛を聴きながら」を聞くと、もう止められない。

 風「ささやかな人生」と「もうあの歌は歌わないのですか」に続けて、小椋佳の「さらば青春」と、最後に西島三恵子「池上線」をしみじみ聞いて立ち上がった。それぞれに思い出があって、昭和50年代の四畳半ソングの抒情歌である。

 それぞれの人に残って居るフレーズが残って、思い出に還る歌の数々、素晴らしい歌詞に込められた思い出が浮かび上がる。

 この頃は、上京して居を定めた神奈川県川崎市高津から、東京都品川区二葉に転居した頃だった。20歳から24歳の4年間は私にとって大きな転機を過ごした時期だった。四畳半のボロアパートに住んで、転職を繰り返して貧困生活を送っていた。時には、友人が泊まっていて、現金預金が無くなったら、近所の飲食店に金を払わず飲み食いして消えてしまって、店主から会う度に請求されて困ってしまいました。

 私は、仕事に就くまで質屋通いでした。時計やカメラを持って行きました。やはり、このような精密機器は良いものを無理してでも買うに限ると、教えて貰いました。時計は5000円位、カメラは数万円借りられました。それ以外は、価値が無いものばかりしか持っていなかった。

 風呂無しなので、定期的に銭湯に行って帰りに奮発して、小さな天麩羅屋さんに寄って小さな貧乏人の贅沢を味わっていた。いつも一番安い定食を注文するので、哀れに思った店主が野菜の天麩羅を一つ追加してくれた。

 こんな生活をしていて、自分が普通の人生を送れないと諦めた境地になっていた。ハローワークに通って、ハローワークの紹介で勤務先が決まれば纏まった就職祝い金が貰えると言われて、決めた会社に入った。その時期は夏の通勤だったが、仙台から出て来た時の冬のスーツしか無く、汗かきかき通勤していた。

 暫くして、学校の先輩の仲介でお付き合いする女性が出来て、急激に真面目に働く始めた。交際2年目に諦めていた人生に光明が仄かに見えて、意欲が出て来た。偶然にも、エクを挟んで、両側に住んでいて行き来を毎日繰り返していた。

 「神田川」や「木綿のハンカチーフ」が流れて居る頃に、求婚して条件を付されて受け入れて暮れた。人生最大の喜びだったが、貧乏育ちで、苦労は多々あった。

 しかし、小さな事には目をつぶってくれて、何とか形を整えて結婚式迄漕ぎ着けた。そこから、私の貧乏人生がハッキリと分かる急展開して向上軌道に乗った。ここから、バブル崩壊やリーマンショック、コロナ禍など世間では最悪と言われた分岐点をチャンスにしてここまで来た。

 やはり、人生を支える、変えるのは経済力で安定した生活を生み出すのは、当然の事ながら現金だと実感した後半の人生だった。私の場合は、妻の経済力に支えられて来たと言っても過言では無い。やっと、ここに来て自力で闘うことが出来るようになった。

 この大阪に親族から請われて来た時には、月額50万円、年収600万円で働く始めたが、直ぐに古株の社員のでっちあげで、オーナーとの軋轢で退社する。

 起業して、直ぐに大きな仕事を継続して頂き、私の役員報酬は初年度から年額1200万円の設定だった。しかし、余りの急激な売り上げで、入金が2ヶ月後なので人件費を支払いも窮する事になって、私は名目の役員報酬だけで実際は受け取れなかった。初年度の売り上げが6000万円次年度が1億2000万円と倍額になり、3年度が2億円を超えて5年度に3億円を超えた。

 私が、実際に報酬を手にしたのは4年目からで、年収が1800万円となり5年度には3000万円になって暫くこのペースで推移した。

 この頃から、別法人としてNPOを設立して成年後見という別事業を行うとの事となった。その後も、一般社団法人を設立して教育事業を行って行く。

 そうして、コロナ禍の最中行政書士事務所を開設する。それぞれ順調に運営されて多忙になって居る。

 収入は、年金を受給する年齢になって、年々収入を段階的に低減させて、妻に納得して貰う収入に抑えて来た。しかし、NPO法人の収益が大幅に増えたので、無報酬だった私は代表理事として報酬を今年度から受給して居る。

 また行政書士としての報酬も初年度から1千万円を超えて、抑制する動きをして居るが、難しいので不動産の購入を始めた。駅前事務所を購入して、今年度から株式会社に賃貸して居る。この事務所があったおかげで、来年度は市からの事業委託拠点として活用する。

 この大阪にて起業して報酬を名目だけで実質1円も手にしなかった3年間は妻から仕送りして貰っていた。資金的に不足したピンチの時も纏まった資金を提供して貰っていた。その返戻で、私に報酬は全て妻の手に渡していた。その殆どを手を付けずに積み重なって居る。その年金も全て妻が受け取って居る。

 私は、今やっと報酬を自分の手にして居る。その報酬の一部を先日から、債務超過の家庭への家計管理を委託されて一括立替返済の事業を開始した。当然だが利子を取ることはせずに、管理料を受け取って、立替金返済を併せて行う事となった。これが上手く行けば、上限を決めて事業化したいと思って居る。