行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

生き別れを会わせた結果に忸怩たる思いに

 今日も11時に外出する直前に八代亜紀さんの「もう一度会いたい」「雨の慕情」を聴いて、迎えに来て待っている三輪さん運転の車両に向かった。5日に、がん治療を受けて退院して来た菊ちゃんも集合して一緒に出発した。

 途中、「かつアンドかつ」で、栄養補給をした。思い思いのメニューを注文した。仙台出身でありながら、冬の味覚の王様「牡蠣」アレルギーで、私は食べられないので別メニューに、エビフライを単品追加して、美味しく昼食を終えた。

 少し早かったが、居住支援セミナー会場の大阪府社会福祉会館に向かった。開始の1時間前に着いたが、受付だけ済まそうと会場に行くと、大阪府担当者が居て今後の事業展開について情報共有した。課題の認識が共通で、打開策の内容も一致して驚いた。

 加えて、全国居住支援法人協議会との大阪拠点設置についての協力要請に東京から本部役員が来るとの事で日程調整をお願いして、決めた。

 全国居住支援法人協議会の大阪拠点のメイン法人が当社に決まったので、より多くの力を傾注して実績を挙げたいと思っている。

 そうすると、今後は会場に来ていた守口市居住支援部署責任者が来ていて、声を掛けられた。ここでも、守口市居住支援協議会設置へ動いていて事務局法人を当社が受託する事になっていて具体的な今後の活動について話し合った。

 研修会が終わってから、再び、今後の街づくりや空き家対策について、話しをさせて貰った。そうして、今後の全国居住支援法人協議会が守口市に拠点設置されて私どもの法人が中核として活動するので、協働しながら街づくりや空き家対策をして行く方向で話し合った。

 2時間ほどのセミナーだった。先行して居住支援協議会設置を行った大阪府吹田市と広島県廿日市市の事例発表だった。しかしながら、私の精神は眠さに負けて半分の時間は眠っていた。申し訳ないです。

 終了して帰り支度をしていると、摂津市の社会福祉法人の職員が名刺を持って挨拶に来た。その上で、特別養護老人ホーム及び養護老人ホーム入所者への保証人相談。成年後見人受任相談があった。一旦、終わってから再び来て、金銭管理などの相談があった。

 朝、成年後見センター職員が来た。私が、当初関わっていた成年被後見人が危篤状態だと言う。医療機関から成年後見人相談があって候補者になって受任した。旦那さんが危険な状態になって、親族を確認した。奥さんの話では、子供が出来たが、産んで直ぐに駆け落ちして生存さえ分からない、と聞いた。

 戸籍を追って行き、生存して和歌山県に在住している事が分かった。お手紙を出した。暫くしてから、娘さんから電話があった。その前に、地域包括支援センターから情報があってその娘さんが私の手紙に不審感を持って、どの様な組織か聞いて来たという。

 まともな組織だと言われて電話して来た。産まれて間もなく、母親は亡くなったと聞いていた。なので、突然、60年近く経過して生きていると言われて、詐欺電話だと思った様だ。

 私の方で、和歌山市内の指定されたお店で面会した。認知症を発症していると伝えて、成年後見親族申立をお願いし、受託して貰った。そうして、産まれて間もなく別れて60歳に達した娘さんは面影も記憶も無い母親と面会した。

 その時は。私は立ち会わなかったが後から様子を聞くと、認知症の母親は思わず、

 「こんな顔では無かった。」

 と、言ったらしい。

 その後は、母親の面倒を見たいと言っていた筈だった。

 後見センターから、母親が危篤状態になって延命措置を確認電話を娘さんにした時の会話を聞いた。それもまた、残念ながらという具合だった。皆んな、自分の生活で大変なのだ。遠方まで来れなくて、全て成年後見人にお任せ、との事だった。全て、という事は死後事務など火葬納骨までである。

 親の居ない人生の苦労や辛さを十二分に味わって、還暦に至って親が現れて来た。既に、認知症を患って苦労しか得られない時間を私は与えてしまった。母と子の人生の営みは、既に過ぎ去って遠い彼方に行ってしまっている。一時の感情でしかなかった時を演出してしまった自分の行為は、単なる成年後見人の職務だけで苦痛の時間を与えたに過ぎない。

 親が危篤と言われても、60年も大事な時期に1分も交わる事が無かったのに、今、母親の延命措置の有無の判断、もしかしたらその後の医療費の負担、葬儀や納骨などの負担を負うかも知られない。その前に、遠方の病院へ駆け付ける負担、泊まり掛けで看護する負担。

 もう感激の面会から10年を経過して、還暦から古希となって母親は卒寿を数年も超えてしまって、親に対する扶養義務を求めるのは酷だ。移ろいやすい人間の心の動きを納得して、報告を終えた。