行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

亡くなって3年、改めて母親を思う

 さだまさしさんの「案山子」をよく聞いているが、その詩の完成経緯を読んだ事があった。バイオリニストとして天才少年として有名だった佐田少年は、東京で著名な先生に指導を受ける為に上京した。しかし、世の天才少年少女の末路の哀れさに並んでしまう。

 故郷長崎県に戻って捲土重来を期す。何と、フォークグループとして踏み出す。地元の行事であった「精霊流し」がヒットして「無縁坂」もヒットすると、暗いイメージがつき始める。そこで、解散して出直しを図る。

 その東京で苦労していた時に、実家を守る長兄から気遣った手紙が来た。その手紙を基に作詞したという。

 最近は、色々な曲を聴く時に詩も噛み締めて聴くようにしている。家族が東京での独りでの生活をあれこれと心配して、加えてまさしを心配している母親に一言なんでも良いので連絡をくれと長兄に言われている。

 その言葉を聞いていると、私も学校を卒業して帰る気持ちも持てない退路を絶った立場を思い出しながら、あの当時の自分に悲しくなってしまった。

 3年前に亡くなった母親に声を掛けて欲しかったんです。どうしているのか、元気でいるのか、と。

 そうして、何でもっと母親に声を掛けてやらなかったのかと。

 母親は、私が物心ついた頃から朝から夜遅くまで働き詰めだった。親父が働かず酒ばかり飲んで、家庭は崩壊してした。兄貴が家を出て上京する。借金は増える。借金取りがひっきりなしに来る。

 母親は、この環境から私だけ逃避させた。中学1年生の時である。小さな隠居さんの住んでいた家が空いたので借りてくれた。それから独り住まいとなった。

 勉強はした。母親に喜んで貰いたくて。しかし、今の就職環境とは大きく異なって、保証人もいない酒浸りの父親と貧乏家庭では何の希望も無かった。ただ、家を出て行くだけだった。上京をした。故郷や家族から離れて、退路を絶って上京した。

 悪戦苦闘の連続で、それでも友人や先輩、上司から恩恵を受けて、常に勉強しろと叱咤激励される環境の中でもがく。流れ流れて大阪に流れ着く。

 貧乏で良かった、とつくづく思う。貧困の経験をしていたので、生活が底辺であっても何にも思わなかった。いつも満足していた。収入に応じた生活が出来て、無駄な生活はしなかった。

 母親の晩年の十数年の生活を支えた満足感があったが、今、亡くなって3年を経過して見ると金銭的ではなくて、もっと話す機会を作れば良かった、もっと感謝する気持ちを伝えておけば良かった、と思い至っている。

 「案山子」を聞きながら、そう思う。もう、返事は返って来ない。母親に出来るうちに、後悔しない生き方をしておけば良かった。


 今日も、住まい確保の相談電話があった。働き

盛りの若い男性から、就職が決まって親元から離れたいので、なんとかして欲しいという。基本情報を聞いて、サポートする事を告げて今後の手順を説明した。

 被保佐人の財産の確認が終わったので、家庭裁判所への初回報告と報酬付与申立書を作成した。

 昼にマンションに戻って、昼食後、納骨をお願いするお寺さんにメールでお骨を持参する日程調整をお願いした。午後から外出して、銀行へ行って振り込みなどの手続きを行った。時間に追われて、3時迄の手続きなので、三輪さんと二手に分かれて処理した。

 私は、その後、徒歩で法務局に向かって法人の登記簿謄本を取得して三輪さんが迎えに来るのを待った。

 メールを送ったお寺さんの庵主



さんから返事を頂いた。日程が決まったが、何故、私と繋がったのか、何度も詳しく聞かれた。尼さんで、超有名な方で忙しく結局12月になってしまった。

 今度は、5月に移住してきた方が突然何も連絡なしで、故郷に帰ってしまったと不動産屋から情報をいただいていたが、色々と契約を交わしているので、何も言わずに行方不明になると支障が出てくる事があるので、保険会社と対応の打ち合わせを行った。