行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

お人好しの末路

お人好しのまま、大阪に来てしまった。なので、大阪人の気質を知らずに業務を始めた。その時の記録を読んだ。今から23年前に起業した当時の記録だ。

 自分で起業した後の戦略を決めていた。これを実行すれば上手く行くと思って実行に移した。しかし、その実行する、つまり顧客を獲得してからの戦略だったので、顧客を確保するまでの手法は念頭になかった。

 それまで、東京でのサラリーマン30年の経験で営業経験はほんの3カ月だけだった。その3カ月の経験で実績を上げた記憶があってそれを踏襲する積もりだった。

 その実績を上げた営業スタイルとは、実に古典的な手法で、しらみつぶしに関係先に訪問するというごく単純なスタイルだった。

 それも、パンフレットはあっても、殆ど説明をしない。単に名刺を置いて行くだけ。東京で成功した営業スタイルは、1日50件のノルマを課してひたすら名刺を配り続けた。

 大阪でも、守口市から始まって、門真市、大東市、寝屋川市、そうして最後は東大阪市と1カ月強で関係先を回り尽くした。

 パンフレットには、興味あるを引くサービスを入れた。名刺は、金銭的余裕が無かったので、コピー用紙に手書きで名刺を作って名刺の大きさにカットして持って行った。

 当時のこの苦難の旅立ちを記憶していた方が何人もいて、語り草となっていた。現在も23年を経て地域包括支援センターの管理者となっている方が、時にあの光景を話してくれる。

 そのパンフレットに書いてあった、他の事業所が行わないサービスを提供すると幾つかの種類を謳っていた。

 その一つ、24時間サービス提供に依頼が来たのだ。依頼が来た時の戦略を決めていたので、最善のサービスを提供した。これも、オーソドックスな何の変哲もない手法だ。

 依頼が来たら、最高の人材を投入して最高のサービスを提供する、その実行をした。深夜2時半から30分だけのオムツ交換だった。施設にて経験豊富な若いヘルパーさんを送り込んだ。

 深夜2時半からだと、身体に負担が大きくなるので、午後からの出勤にした。訪問先まで40分程度掛かった。家に戻って来るのが午前5時頃なので、一眠りしてから事務所への出勤を午後からにした。

 他の事業所と半分ずつの担当だったが、差がハッキリと出て家族が当社のヘルパーさんだけを望んだ。ケアマネジャーは、大阪では最大の医療・介護機関だったので忽ち口コミでは当社の存在がクローズアップされた。

 それが、幾つもの市から火の手が上がった。そこから、自前のヘルパー養成校の設置を目指す事となった。しかし、創業して間もない当社では養成校設立の条件がクリア出来ないし、多くの種類の科目を担当する講師の確保は出来ない相談だった。

 なので、既存の福祉専門学校と提携して養成をお願いする事にした。募集は当方が行って、委託をする方式だった。この方式は、選択した指定養成校の詐欺で、日本中を賑わす大変な事件になって巻き込まれてしまった。

 その事件の前の事だった。ヘルパー養成日程に合わせて、新聞等で受講生を募集した。いつも満席で大きな事業になった。その募集するチラシを作成して、広告会社に委託する方式だった。

 あろうことか、その専門学校が私がいつも満席にする受講生を集客するもので、広告会社に当社のパンフレットが出来た時点で新聞に入れる日程を把握して、同じ地域の同じ会場で当社の予定より数週間前のスケジュールで養成講座を決めて会場も同じにして募集をする裏切り行為を平気で行い始めた。

 自前だったら、受講料全額が自分の身入りになる。当社の紹介だったら半分しか身入りがないから、全く収益が異なるのだ。

 その経緯が詳細に記録されていたものを読んで、お人好しの自分を自覚した。その裏が分かっても、仕方がない金銭的に苦しんでいるんだろう、と変な納得感を抱いていた。

 そうして、翌年、この福祉専門学校の学院長は詐欺で逮捕されるわけである。勿論、わたしの募集した立場から多くの損失を得てしまった。

 今日も、午前中はいつもの時間に出勤して、いつもの通り仕事をした。午後は、銀行巡りを行って、預かっている通帳の打ち込みと入金などの手続きを行った。

 先ず、紀陽銀行大阪支店に行った。被後見人の残高打ち込みをして、初回財産報告書の資料を作成する。続いて、スーパーで買い物をして、三菱UFJ銀行守口支店、三井住友支店へ行って振替や打ち込みを行った。

 明日は、大学駅伝の実況中継が早朝からあるので、今年初めて出勤せずにテレビに齧り付きだ。