行政書士から拡張業務へ

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年末の仙台への帰省日程を決める

 一時は、体調不良に襲われてどうなってしまうのだ、と不安感に襲われたが徐々に回復している実感があるので、不安は殆ど失せてしまっている。良かった。

 その勢いから、年末の毎年の行事である仙台への帰省の準備に取り掛かった。毎年の帰省理由は、母親の年に一回の安否確認だったのだが、3年前に残念だが亡くなってしまった。

 あっという間だった。体調悪化との連絡を受けて慌てて帰省した。痩せて小さくなっていた。そんなに病状が悪化しているとは思わなかった。親はいつまでも元気で居るものだと勝手に思い込んでいた。

 いつもの年末帰省から数か月後に、帰省した。住宅設備の改修する事や事務手続きの付き添いを行った時に病状悪化を聞かされたが、深刻な症状だと理解していなかった。申し訳ないと思っている。

 仙台在住で母親の身近に居て面倒を見ていた弟から、病院へ親族として呼ばれて聴いた余命宣告を聴いた。未だ、現実として受け取れなかった。国立病院機構の担当医から私宛て直接電話があって、初めて深刻な病状だと受け入れた。

 ただ、コロナ禍中であり面会謝絶だと言われて、帰省して母親の顔を見たいと言う願いは実現しなかった。手術や治療時に執刀医や看護婦長から電話があって詳細な報告があった。

 最大の決断が、治療方針の親族としての結論だった。どれほど高度な医療措置を施しても、一月の命と言われて、延命措置を行うか苦痛を和らげる措置をして寿命に従うか、その上で医師としての見解を伝えられた。

 私は、経済的に余裕があったので、最善の高度な治療を願った。手術が終わって、自宅に帰りたいとの強い希望にあがなえず、国立病院機構は苦渋の選択で妥協して自宅に戻った。医療の在宅医療訪問計画をしていただいて、在宅治療に移行した。

 背中に管が入っているので、仰向けでいることは出来ないので工夫を施して実現したのに、眠っている最中に無意識に管を抜いてしまうので、在宅は無理との判断で1日の自宅滞在で国立病院機構へ逆戻りとなった。

 その変更の度に連絡がそれぞれのサービス提供事業所から許可のお伺いが来る。私もケアマネジャーだったので、全て現地の判断にお任せします、と返事をしていた。

 母親が私の連絡先として名刺を持っていたので、対応が最善だったのを感謝した。仙台市在住の弟が病院を訪ねても面会は許されずに、危篤の連絡が入った。

 ダメだった、と気落ちした声が受話器から聞こえた。連絡を受けた時には、冷静に受け止められた。それは、医療、介護など時事刻々と現状が報告されて自分が決断して母親を見送ったからだと思う。

 直ぐに帰省した。それから、死後事務にて何度も帰省して、多くの手続きに追われた。母親に、素晴らしい人生を生かされたと感謝していた。母親は苦労して、シングルマザーとして男の子5人を育てた。昼夜休みなく働いていた記憶しかない。

 その姿を見ながら育ったので、働く事しか出来ない人間になっていたのは、母親に感謝していた。しかし、大事な時期には母親との関係は事情があって最悪だったので、悔やまれる。感謝はしていたのに、表現が出来なかった。

 ただ、老後の最後の10年間は、私が経済的に不自由のないように支援していた。そんなのは、自分が満足しているだけだった。自分が苦労して育てた男5人が、次々と仙台を離れて去っていく時の心情はいかばかりだったのだろうか。

 私も、親元を離れて苦労に辛苦を味わって気付けば70歳を超えてしまっている。故郷に帰りたいと思っていながら、望みを果たせず今に至っている。

 最後に実家で過ごした母親の遺品を整理して、大きなものは実家近くに住んでいた弟や近所の世話になった方に引き取って貰った。持てるものは私が運んで来て事務所に置いてある。もう3年も経ったのに、十分な整理をしていない。自分で書いた「いしょ」と書いてある書面が何枚か見つかった。

 相続財産は、仙台に何度か通って銀行や市役所に行って必要な手続きを取って、亡くなった長男の代襲相続人が全国に散らばっていたので、私の責任で外して弟2人と分割した。私の支援していた毎月提供していた残った現預金だった。

 生前に市営墓地に立派なお墓を構えて居てくれたので、良かった。今は、私が生まれた地域の近くの墓地に眠っている。

 そんな事を今日は思いながら少しの時間を過ごした。その思いに至ったのは、帰省の予定を立てる必要かあったので。もう帰る家は無いので、メトロポリタンホテル仙台への予約をして、25日から28日迄のスケジュールを確保した。その予定を毎年お世話になる先輩にメールで報告した。

 午前中は、その他、IT導入補助金への申請準備の書面作成して、少しは仕事らしい事をした。明日も3連休で、ゆったりとした気持ちで仕事が出来そうだ。

 一月位全く仕事から離れて過ごしてみたい。

 お昼になるまで、勉強をしてマンションに戻った。昼食は、自家製の鯛の西京



漬けと麻婆豆腐を食べる。

 食後はのんびりと横になってうつらうつらして眠ってしまった。