行政書士から拡張業務へ

基本資格行政書士を活用して代書屋からの展開

母が亡くなって3年目、やっと思い出を辿れるようになりました。

 3年前の、コロナ化が加速を増して来て、実態がまだ分からない時期に、母が入院せざるを得なくなった。8人兄姉の一番下で、未だ、上の姉が何人かと温泉に出かけるくらいの生活だったので、まさか、姉よりも先に逝くとは思わなかった。
 思い返せば、母親の腕一つで5人の男の子を育てていたので、そんなに早く逝くとは思わなかった。それでも、享年86歳である。
 母親は、栃木県烏山の出身で、どのような経緯を辿って宮城県仙台市に辿り着いたのか分からないし、最後まで聞かなかった。それでも、生まれて間もなくから毎年夏には烏山の田舎に帰省してひと時を過ごしていた。
 私が仙台にて生まれたことは、本当に感謝している。この仙台での教育を受けられたことは人生生涯に亘って自分の生き方を作ってくれた故郷だった。
 中学校を卒業するころには、自分の人生を考え環境を考えて、中学卒業してから働きに出て、家計を助けないといけないと思っていた。ところが、母親が、
 「高校くらいは行きなさい。」
と、言って励ましてくれた。
 そのころには、既にみんなが高校受験の終盤に差し掛かっていて、担任教師に相談して仙台商業高校を受験することにして、何とか、入学できた。あの、サンドイッチマンが後輩になるのだ。
 その商業教育を受けたおかげで、人より早く現実的な社会人教育を受けたと思っている。その商業に関わる仕事をしたいと、興味が持てる分野だった。そうして、社会人として神奈川県川崎市にて働き始める。その後、東京、千葉、埼玉と住まいは変わり、仕事も幾つも変わって行く。
 やっと、落ち着いた時期は、この大阪にて働き始めた20数年前の事だった。しかし、その時には、親は、ある宗教に没頭していて私も諫言するも、敵のような扱いになっていた。爾来、私は仙台へ毎年帰省はするが母親の顔を見るだけで、10分程度で実家を出てホテルに投宿していた。
 経済的な支援を、していた。毎月、支援をすることで母親のためになると思っていたが、ある時期に、その支援する金銭が宗教団体への色々な経費に使われているのを知った。
 どうしようか、悩んでいたが継続した。最後の数か月間、仙台へ帰るがコロナ禍で家族でも面会できない国立病院だった。転院する時に宗教と運営する法人の母体が気に入ら居ないと、一旦、自宅に戻っているが悪化して直ぐに、元に戻る。
 最後に得た言葉は残っている。時間を見て、母親の故郷へ行ってルーツを見てこようと思っている。