行政書士から拡張業務へ

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人生転機の日、日航ジャンボ機墜落、あれから37年。

 あれからもう37年になった。1985年8月12日は、日航ジャンボ機が群馬県上野村御巣鷹山尾根に墜落し520人の命を奪った、鎮魂の誠を捧げる日だ。
 私は直接関係はなかったが、ただ、強く記憶に残っている日だった。37前のこの日、私は定年まで務めると決めていた公益法人を退職した日で、これまでの記憶を全て白紙にして、意を決してその思いを抱いて座った目の前のテレビ画面に日航機が行方不明になったと、流れた。
 暫くすると、定時の番組が打ち切られて臨時ニュースが始まった。夕方から、翌日まで休みなくニュースが流れていた。それでも、墜落場所が特定できずに、ハッキリと確認出来たのは翌日になっていた。
 後から知ったが、米軍のアンテナ基地である朝霞キャンプでは航跡を追跡していて墜落場所を早々と特定していたと聞いた。
 日本政府は、アメリカの製造責任を追求出来ずに追求しない、素永い賠償請求をしないという取引を行った。補償などの負担は日航や日本政府が負うことになった。
 墜落から15年後、2000年に念願の御巣鷹に参拝させて頂いた。
ある年の8月12日の記録を見ると、NHK「思い出のメロディー」見ながら思い出した記録が綴られていた。
 
【私と同じ生きた時代の、坂本九の「上を向いて歩こう」があったが、私は「見上げてごらん夜の星を」の方が好きだった。彼が、日航機墜落事故で命を失ったまさにその日、私にしては珍しく長く勤めた会社を退職した日だった。妻が長男を連れて実家に帰り、私一人がひっそりとしたマンションの1室でコーラを飲みながらテレビを見ていると、日航機が行方不明になったとテロップが流れた。そこから長時間ニュースに釘付けになった。あの日がそれからの人生の転機となった。証券会社に入り、バブルが来て不況が来て。退職した。そして、この世界に入った。数年前、日航機が墜落した群馬県上野町の慰霊塔を参った。】


 私の、今あるのは、思い切って安定していた生活を辞めた日があったからで、一歩踏み出して後悔しない今がある。