午前2:33逝去連絡、シェルターへ居住確保要配慮者面談
いつものように事務所へ出勤して、何の気無しにスマホを手に着信記録を目にした。何と、午前2時42分と46分に不在着信があった。驚く私の脳裏には、その発信先の施設に入居している、私が成年後見人を勤めている成年被後見人の死去を想起させた。
7月、8月に数回ずつ緊急搬送されて、当然の職務だが搬送先の医療機関へ駆け付けて入院手続き、そうして退院手続きを繰り返した。不思議なのは、医療機関の診断はハッキリした症状に対するハッキリした診断が下せなかった。1週間程度でいつも退院していた。
施設に戻ると、体調不良で食事が出来ず悪化して救急搬送となっていた。
処が、ある時に主治医に呼ばれて面談があった。結論は、余命一月程度だと言う宣告で、早急に親族の面会要請をするように言われた。直ぐに、徳島県の親族に連絡した。1週間後、大挙して親族の方々が徳島県の山間の地域から駆け付けて来た。既に、会話は不自由な状態だった。目が爛々としていた記憶がある。目で、幼少の時を過ごした故郷を彷徨っていた。兎に角、食事が摂取出来ていない。点滴では、長期の延命は出来ないので覚悟するようにとのことだった。
私も、全て任されている立場で、親族と根性の別れの場面設定で心残りが解消されてホッとした。その後は、気持ちも離れていて余命一月との主治医の言葉を忘れていた。不在着信の時間を見て直ぐに察した。その覚悟を持って施設に連絡した。土曜日なので、当直者が出て、成年被後見人の死去を告げられた。
手短に、勝手に葬儀社を決めて依頼しない事、死亡診断書の確保確認、指定する葬儀社に連絡してご遺体の引き取り時間を連絡するので少し待って欲しい、などに連絡を行った。
直ぐに以前から予約している葬儀社に連絡して、ご遺体の引き取り依頼したが、来るのが10時過ぎと言われ何故簡単に受け入れたのか、後から冷静に考えて見ると納得出来ない時間だった。何故なら、電話した時間が7時半で3時間掛かると言うことだ。以前は、深夜とはいえ30分で来た。知人の紹介で融通が利くので葬儀にはオンリーでお願いしている。
次は、落ち着いて徳島県の親族に電話して、今後の打ち合わせを行った。先日、面会したので火葬、葬儀などは私に一任と言われた。一旦電話を切ったが、直ぐに掛かって来て戒名は信心している本家の宗派を指定されてその宗派の寺院の僧侶に依頼して下さいと、との事だった。加えて、実家に飾る遺影の大きさを言われて、最後に納骨時の骨壷のサイズを指定されて打ち合わせを終えた。
私が、全て終えた後に遺影、納骨壺、遺品などを実家に持参する事を伝えた。今月末と思ったが、施設経費の精算が来月になるので、それを終えてからになる。
三輪さんが、早くから起こされて迎えに来た。申し訳ないけど、この仕事に就いた結果で、堪えて欲しい。それから、施設に向かった。施設の故人の部屋に入った。穏やかな尊顔に触れて、数年間と言う短い関わりを思った。遺影を作成するため、部屋にあったアルバムや記念写真を確認して数点ピックアップした。
弟さんと会った時に聞いた、後継だった長男である成年被後見人は、中学生卒業と同時に家を出て、理容師の店に就職して職人の人生をスタートさせた。時を経て、四国を出て大阪に来て、働きに働いて独立開業した。その当時の理美容技術のコンテストで優秀賞を得たトロフィーが、この部屋に立て掛けてあった。
彼は無年金で、一円も年金など受けること無く、施設での晩年を過ごしていたが自費で自分の財産からの支払いだった。入所する前に住んでいた部屋の大家さんから、現状回復の訴訟を起こされて200万円近くの修理費用を支払っていた。部屋の壁は激しく破壊されていたと聞いた。
葬儀社が到着する。打ち合わせして、室内に入る。施設職員が整列して見送る。感謝の意を伝えた。これからの手続きや遺族からの要望を伝えた。葬儀社は、休日の市役所に手続きに向かった。連絡があって、死亡届人が私になっているので、成年後見人の登記事項証明書が必要との事があって、休み明けに大阪法務局で待ち合わせして、取得後手渡しする事になった。
私は、この足で居住確保要配慮者待つ茨木市のシェアハウスに向かった。その前に腹ごしらえで、茨木市駅の近くにある「ぎょうざの満州」に入った。私は、野菜炒めと餃子のセット、三輪さんはよだれどりの何とかを食べた。
辺鄙な場所に設置してあるシェアハウスに向かって、駐車場が近くに無いのでコンビニに駐車して、三輪さんに待機して貰って徒歩でシェアハウスに向かった。本人がシェアハウスの外で待機していた。談話室で経緯や希望を聞いて、その場で不動産仲介業者に電話して物件の確保を依頼した。
今日の仕事を終えたが、疲労困憊してマンションに戻って横たわると眠ってしまった。


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